「わたしがやってほしいことが、あなたにできること」について考えた日

want-and-can 心とことば

「わたしがやってほしいことが、あなたにできること」

ある日、テレビから流れてきたそのセリフに、思わず手が止まりました。

それは、ドラマ『不適切にもほどがある』の第2話の中で、仲里依紗演じる犬島渚が発した一言でした。

ドラマでは、仕事と育児、どちらもひとりで抱え込んで限界に達しかけたところを、「あんたが今して欲しいことが、俺に出来ることだよ。」と小川市郎に言われることで渚は救われます。

でも、別の意味で、そのセリフが私の心に深く刺さったのです。

ああ、私はこれまで――
どれだけ「自分がやってほしいこと」を、相手に当然のように求めてきたんだろう。

そして、「それができない人」に対して、どれだけ勝手にがっかりして、傷ついたふりをしていたんだろう。

「やってほしいこと」と「できること」のバランスって、けっこう難しいのかも。

「わたしがしてほしいこと」と「あなたにできること」は、ちがうかもしれない

考えてみれば、誰かに何かを期待するということは、案外ずっと難しい。

たとえば、
育児で赤ちゃんに向き合っているとき、例えば手伝ってくれる家族やパートナーに、「いまおむつを出してくれていたらな」「このタイミングでミルク作ってくれたらな」なんて、日常茶飯事で思っている。

でも、私の「やってほしい」は、相手にとっては「(今は/今日は/自分は)できない」かもしれない。

そんなこと、頭ではわかっているはずなのに――

わかっていた“つもり”だっただけで、どこかで「わたしならこうするのに」と思っていたのかもしれません。

相手の行動を、私の期待でジャッジしてしまっていた。

しかも、それにすら気づかずに。

冷静に考えると、とても傲慢なことだと思います。

わたしは、誰かの「できること」をちゃんと見ていた?

ふと、パートナーとの日々を思い出しました。

文化や言葉のまったく違う環境で育ってきた私たち。
すべての原因が文化や言葉の違いに起因するわけではないし、そもそも違う人間同士が家族になったということ、相手の期待する行動が取れないことなんて、よくあります。

私は「察してくれないこと」に苛立ち、
彼は「なぜ言ってくれないのか」と困惑する。

きっと彼にも「わたしにやってほしいこと」があって、
でもそれが「わたしにできること」じゃなかったこともあるんだと思います。

それに気づかず、
“わたしばっかり我慢してる”と思っていた日も、あった気がします。

コールドプレイの歌詞を思い出した

コールドプレイの「Something Just Like This」という曲の歌詞が、ふと頭をよぎりました。

I’m not looking for somebody
With some superhuman gifts…
Just something I can turn to, somebody I can kiss.

(スーパーヒーローみたいな人じゃなくて、
ただ、頼れる誰か。キスができる誰かがいたらいいの。)

誰かに「こうしてくれたら」「ああであってくれれば」なんて、自分の中での「完璧さ」や「理想」を求めてしまうことはあるけれど、

本当はただ、自分のそばにいてくれること、それだけでよかったりする。

「あなた(わたし)ができること」でいい。

「あなた(わたし)にしかできないこと」でなくてもいい。

そう思える関係でいたいと、改めて思いました。

「わたしも、全部はできない」

育児が始まってから、さらにその気持ちは強くなりました。

子どもが泣いていても、すぐに抱き上げられないときがある。
家事も中途半端、気持ちに余裕もない。

そんなとき、誰かに「あの時これやってほしかった」と言われると、
「ごめんね」と同時に、どこかで「その時は精一杯がんばっていたんだけどな」と思ってしまう。

いつか子どもにも、「あの時はこうしてほしかった」なんて、言われる日がくるかもしれない。

そう、私自身も「誰かのやってほしいこと」に、全部応えられているわけじゃない。

だからこそ、
「あなたにできること」の中でやってくれることに、もっと目を向けたいと思ったんです。

“やってくれなかったこと”にばかり焦点を当てるのではなく。

すれ違いの間にある、やさしい余白

きっと誰かと関わるというのは、
「やってほしいこと」と「できること」のすれ違いを、
日々少しずつすり合わせていくことなんだと思います。

無理に合わせる必要はないし、いつも分かり合えるとも限らない。

でも、
「それができない」と知ったうえで、
「それでも一緒にいたい」と思える関係は、とてもやさしい。

できるだけ、
「あなたがやってほしいことが、わたしにできること」
が実現できる自分でありたい。

すれ違っても、なんとなく戻れる。

わかってもらえなくても、わかろうとしたいと思える。

そんな“余白”のある関係を、私はこれからも育てていきたいです。

さいごに

あのセリフが刺さったのは、
きっと「人とちゃんと向き合いたい」と思っている自分がいるからだと思います。

これからも、
誰かに何かを期待してしまうこともあるし、
反対に、
自分が期待に応えられないことで落ち込むこともあると思う。

それでも、
「わたしがやってほしいことが、あなたにできること」
「あなたがやってほしいことが、わたしにできること」

であってくれたなら、
それはきっと、奇跡みたいに優しいことなんじゃないか――

そんなふうに思った、ある一日の記録です。

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