娘が初めて手足口病になった。
保育園から連絡があり、急いで迎えに行き、その足で小児科へ向かった。
診察の結果は手足口病。
幸い重症ではなかったものの、先生から、
「口の中が痛くて食べられなくなったときのために」 「熱が出たときのために」
ということで、子どもでも飲める痛み止めを処方してもらった。
帰宅後、夫や保育園の先生に状況を説明する。
そのとき、日本語なら自然にこう言う。
「お医者さんに痛み止めを処方してもらったんだよね」
さて、これをドイツ語で言いたい。
つまるところ何が言いたいのかというと、「〜してもらった」と言いたいのである。
lassenで「してもらった」は表現できるのか考えた話
そこで私は思い出した。
そういえばドイツ語には便利な表現があるじゃないか。
lassen だ。
美容院で髪を切ったとき、
Ich habe mir die Haare schneiden lassen.
と言う。
日本語に訳すなら、
「髪を切ってもらった」
がしっくりくる。
ならば、
Ich habe meiner Tochter Ibuprofen verschreiben lassen.
も言えるのでは?
しかもなんだかネイティブっぽい気がする。
と、verschreibenをここ最近覚えたばかりの私はほくそ笑む。
これは良い発見ではないか。
そう思って夫に使ってみた。
すると返ってきた反応は予想外だった。
「なんか偉そうに聞こえる」
なんで。
私としては、
「処方してもらった」
と言いたかっただけなのだ。
しかし夫曰く、
「お医者さんに処方させた、みたいに聞こえる」
とのこと。
なるほど。
日本語訳としては「〜してもらう」がぴったりでも、文法としてはあくまで使役なのだ。
言われてみれば当然である。
あくまでも、「使役」だ。
たしかに、
Ich habe meine Tochter spielen lassen.
と言えば、
「娘を遊ばせた」
であって、
「娘に遊んでもらった」
ではない。
やはり lassen は根本的には使役表現なのだ。
それなのに、なぜ髪を切るときは自然なのか
ここでさらに考え込む。
ではなぜ、
Ich habe mir die Haare schneiden lassen.
だけは、
「髪を切ってもらった」
という受益表現として自然に感じるのだろう。
夫の説明はこうだった。
「美容師はその仕事をする専門の人だからじゃない?」
なるほど。
確かに自分で自分の髪を切る人は少ない。
けれどそれ以上に大きいのは、たぶん「主導権」の感覚なのかもしれない。
髪を切るとき、私たちは「どう切るか」「いつ切るか」をある程度こちらが決めていて、
そのうえで専門家に委ねている。
つまり行為全体は“こちら側の選択の延長”にある。
だから lassen の「させる」という構造があっても、そこに強い強制力は感じにくくて、
結果として「切ってもらった」に近い感覚で受け取られるのかもしれない
(あくまで日本人には、そのほうが訳としてしっくりくる)。
一方で医師の診察については少し事情が違う。
患者は診察を受ける。
医師は診察をする。処方箋を書く。
その行為主体は明確に医師である。
だから、
Ich habe Ibuprofen verschreiben lassen.
と言うと、
「私が処方させた」
という、行為主体をあえて”私”にしているニュアンスが前面に出やすいのだろう。
さて。
どうして私はそんなに「してもらった」を言いたいのか。
ここで話は日本語へ戻る。
そもそも私はなぜ、
「お医者さんが処方した」
ではなく、
「お医者さんに処方してもらった」
と言いたくなるのだろう。
考えてみると、日本語には授受表現という仕組みがある。
日本語教師のときに、よく説明していた文法である。
あげる。
もらう。
くれる。
日本語母語話者は子どもの頃から、
誰が誰に何をしてあげたのか、 誰が恩恵を受けたのか、
という視点を無意識に表現している。
たとえば、
「先生が薬を処方した」
と
「先生が薬を処方してくれた」
は事実としてはほぼ同じだ。
しかし後者には、
「こちらにとってありがたい行為だった」
という感情が含まれる。
さらに、
「先生に薬を処方してもらった」
になると、
受益者である自分側の視点が強くなる。
日本語ではこの違いが非常に重要だ。
しかしドイツ語では、そこまで頻繁に表現しないようである。
事実を述べるだけなら、
Die Ärztin hat meiner Tochter Ibuprofen verschrieben.
で十分なのである。
なんとか、してもらった、をドイツ語に持ち込みたい私
しかし、ここで終わる私ではない。
「ドイツ語には、日本語の『してもらった』にぴったり対応する表現はなさそうだ」
ということは分かった。
でも私は言いたいのだ。
処方してもらった。
プレゼントを配ってもらった。
助けてもらった。
とにかく「してもらった」が言いたい。
そもそも私は、「してもらった」と全く同じ機能を持つ文法を探しているわけではない。
ただ、この出来事に対して私が感じている「してもらった」という感覚を、ドイツ語のどこに置けばいいのかが気になってしまったのである。
そこで私は考え始めた。
もし「してもらった」というラベルをドイツ語に貼るとしたら、どこに貼れるのだろう。
以下は、そのときの私の脳内会議の記録である。
試行① lassen構文に置く
まず思いついたのは、上記でもすでに述べた通り、もちろん lassen だった。
Ich habe meiner Tochter Ibuprofen verschreiben lassen.
「処方してもらった」のラベルを、構文そのものに背負わせようとしたのである。
しかしすでに書いたように、これは夫に一蹴された。
「なんか偉そう」
なんで。
私としては「してもらった」と言いたかっただけなのだ。
しかし夫によると、
「お医者さんに処方させた、みたいに聞こえる」
らしい。
なるほど。
私は「してもらった」を見ていた。
夫は「使役」を見ていた。
同じ文を見ているのに、見ているものが違う。
この試みは失敗に終わった。
試行② 評価語に置く
では、構文がダメならどうだろう。
「してもらった」という感覚そのものは無理でも、「ありがたかった」という気持ちは表現できるのではないか。
そこで思いついたのが netterweise だった。
Die Ärztin hat netterweise ein Schmerzmittel verschrieben.
「先生が親切にも痛み止めを処方してくれた」
日本語ならそんな感じだろうか。
あるいは、
Zum Glück hat die Ärztin meiner Tochter etwas gegen die Schmerzen verschrieben.
も近い気がする。
幸いにも。
ありがたいことに。
そういう気持ちは確かに入る。
ただ、やっぱり少し違う。
Die Ärztinが主語に出たとたん、こういう評価語が急に仰々しく聞こえる。
いや、たしかにありがたいんだけど、それがお医者さんの仕事だしな…みたいな。
私はただ、「してもらった」と言いたいのである。
試行③ 関係性に置く
では、「誰のために」という関係性を強調してみたらどうだろう。
Die Ärztin hat für meine Tochter das Schmerzmittel verschrieben.
娘のために。
あえて für を使ってみる。
言えなくはない。
でも、なんだろう。
少し頑張っている感じがする。
そして、ドイツ人はあまり言わない気がする。
ドイツ語には3格がある。
meiner Tochter と言えば、それだけで十分伝わる。
わざわざ für を持ち出したくなるのは、私がどうしても「恩恵」の方向を見たがっているからなのかもしれない。
試行④ 動詞の中に置く
そんなことをぶつぶつ言っていると、夫がぽろっと言った。
「bekochen とかは近いんじゃない?」
おお。
それはこの間ちょうど学んだばかりだ。
kochen が bekochen になると、
Meine Oma hat mich bekocht.
おばあちゃんが私に料理を作ってくれた。
そんな意味になる。
もしかして、「してもらった」のラベルを動詞そのものの中に埋め込めるのではないか。
これはなかなか格好いい案に思えた。
しかし現実はそう甘くない。
今回使いたい動詞は verschreiben である。
ここにさらに be- を付けることはできない。
もし beschreiben にしてしまうと、
「医者が娘を描写した」
という別の話になってしまう。
ちょっと怖い。
しかも、ここで私はもう一つ気づく。
私はさっき、
Meine Oma hat mich bekocht.
おばあちゃんが私に料理を作ってくれた。
と訳した。
……あれ?
「してくれた」になっている。
なんか近い。
近いけど違う。
私が探していたのは「くれた」ではなく、「もらった」のほうだった。
危うく忘れるところだった。
さて、ここまでいろいろ書いてきた。
でもせっかくここまで付き合ってくださった読者を混乱させないよう、
最後に言っておきたい。
一番無難なのは、まちがいなく、
Die Ärztin hat meiner Tochter Ibuprofen verschrieben.
である。
それでも私は、次に似た場面に出会ったら、
また懲りずに「してもらった」をドイツ語で繰り出すべく、
Ich, ich…. と頭の中で唱え続ける気がする。
私は思った以上に「恩恵」を言語化したい
外国語を勉強していると、文法の違いよりも、
「何を言うのが自然か」
のほうが難しいと感じることがある。
今回の lassen もその一例だった。
文法的には間違いではない。
でもネイティブはそう言わない。
なぜなら、その場面では別の見方をしているから。
ドイツ語を勉強していると、
自分がどれほど頻繁に
「してくれた」 「してもらった」
という視点で世界を見ているのかに気づかされる。
そしてそのたびに、
私はやっぱり日本人なんだなあと思うのである。
いつかこんなことを悶々と考えていたことさえ忘れるくらい、
ドイツ語に慣れるときが来るのだろうか。
ドイツで6か月児健診を受けた記録はこちら:


